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「柏戸」は初代柏戸の出身地 渡良瀬遊水地の土手に突き当たる道、新三国橋から北川辺の田圃の中を湾曲しながら東武日光線の線路を跨いで陸橋のまま渡良瀬遊水地の土手の最上段に突き当たる道がある。この橋の表示は『柏戸跨線橋』とある。北川辺町大字柏戸の地で東武線を跨ぐので、この名称を付けたのだろう。この陸橋のフェンスには相撲のレリーフが4枚ある。橋が完成したころ、きっと盗られてしまうだろうと心配したのだが、杞憂であった。 おそらく、ここを通る車のドライバーの多くが気づかずにいるのだろう。幸いである。 このレリーフの下部には『初代柏戸』と表示され、橋の街路灯は相撲の「軍配」と「吊り屋根」がデザインされている。そうここ北川辺町大字柏戸の地は『初代柏戸』の出身地なのだ。 |
初代柏戸『柏戸村右エ門』 本名は出井(いでい)清次郎。元文3年(1738)武蔵国柏戸村で生まれ、宝暦8年(1758)19歳で騎西町出身の初代伊勢ノ海に弟子入りし、天明2年(1782)2月に引退するまで(最高位前頭3枚目)活躍した力士。雷電や谷風の活躍した時代、力士としては平凡だが、引退した翌年3代目伊勢ノ海を継ぎ、年寄としては勧進元や差添を数多く務めた。寛政元年に行司 吉田追風の指示を受けて、谷風と小野川の横綱土俵入り公開に関して再三の「先例が無い」との却下にも屈せず幕府の許可を得る工作をしたと云う。寛政8年(1796)5月20日59歳で亡くなるまで、後継者の育成に力を注いだ国技大相撲の功労者なのだ。 |
第47代横綱 柏戸 剛(かしわど つよし) 昭和13年11月29日山形県櫛引町に生まれる。本名富樫剛。昭和33年9月入幕、昭和34年3月から11代柏戸を襲名する。明治以後途絶えていた伊勢ノ海部屋の伝統の四股名の復活である。 昭和36年1月に13勝2敗で初優勝。同年9月に12勝3敗、優勝決定戦では平幕の明武谷は倒すが大鵬に敗れ優勝はできず星数も直前3場所で33勝と全くの不足ではあるが横綱昇進を果たした。「巨人、大鵬、卵焼き」と云われた大鵬との同時昇進であったが、怪我や病気に悩まされた不遇な横綱であった。3場所連続の全休から再起をかけた昭和38年9月場所、大鵬との千秋楽全勝決戦を制して見事な全勝で2度目の優勝、これ以上はない見事な復活に日本中が感動した。 大鵬、柏戸の全盛期、「巨人、大鵬、卵焼き」に対して「大洋、柏戸、水割」という言葉があった。子供ウケの大鵬に対して大人ウケの柏戸という意味があったらしい。その大人ウケしたという取口は立合から一気に突進するというもので、一瞬の間に一直線に相手を土俵下に突き飛ばす勝負の様は「電車道」と呼ばれた。不器用だが豪快な取り口は今でも多くの人々の瞼に焼き付いている。 大鵬の32回優勝のに比べると、柏戸の優勝は5回だけと土俵上の記録では影は薄いが、栃若の後の大相撲全盛を支えた大横綱ではある。 |
最強の柏戸は第4代『柏戸利助』 青森県五所川原市(旧陸奥国津軽郡)出身。 文化3年、柏戸宗五郎(第3代柏戸)の弟子になる。師匠柏戸が引退した9年11月場所4日目から柏戸利助と改め、この場所は東前頭4枚目で7勝2敗1分で初めての優勝相当成績。この場所から11年4月場所まで4連覇に相当する成績だった。11年11月場所、小結を飛び越えて関脇に昇進し、鼓ヶ滝には敗れたが7勝1敗1分1預で新大関の玉垣と同点で優勝同点相当。翌場所からまた4連覇相当で、結局9場所連続して幕内最高成績を挙げている。12年3月場所に東大関に昇進した。 183p、132s。筋肉隆々で、力感みなぎる堂々たる大関。取り口も豪快だったが、体がやや固かったという。優勝相当成績は16回(ほかに優勝同点相当2回)。 文政8年1月場所は3戦全敗でこの場所限り引退、伊勢ノ海を相続した。 |
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