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北川辺(利島、川辺)遊水地化阻止闘争 |
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鉱毒事件の収束を図るため治水の名の下に、谷中村が廃村となり遊水池となったのは1906(明治39)年だが、それ以前、廃村の危機にあったのは北川辺(利島、川辺両村)であった。水害のたびに決壊した堤防の改修に莫大な経費がかかる「厄介村」利島、川辺両村を廃村にすることは埼玉県としても好都合だというのだ。
北川辺(利島、川辺両村)の人々は田中正造の指導の元、明治政府・県当局と敢然と闘い、廃村・遊水地化を阻止したのである。国賊も辞さずの決死の闘争は今も北川辺の誇りである。
その後の谷中村廃村、遊水地化に際しても、田中正造と共に反対派農民を最後まで支援したのは北川辺の人々であったと云う。
以下、利島村出身の山岸一平著『死なば死ね、殺さば殺せー田中正造のもう一つの闘いー』(講談社 昭和51年)による。
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田中正造翁肖像
(北川辺西小学校)
昭和5年 松島 順 |
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鉱毒事件は終息に向かった
明治33年2月の「川俣事件」で大量の犠牲者を出したことなどで鉱毒運動は急速に挫折した。さらに、明治30年、足尾鉱山が実施した予防工事によって被害は減少、明治35年を区切りとして渡良瀬川上流、中流域の鉱毒反対運動は終息に向かったのだが・・・。この時から、利島村,川辺村両村(現北川辺町)と谷中村の壮絶な、そして田中正造の最後の闘いが始まった。
北川辺の遊水地化
両村は度重なる水害で疲弊していた。明治20年以降だけをみても22年、23年、25 年29 年、31年と5度の大水害を蒙り、洪水のたびに決壊した堤防の改修に莫大な経費がかかるため、埼玉県当局は利島、川辺両村を「厄介村」と呼んでいた。
内務省、農商務省と埼玉県は、鉱毒の被害は堤防の決壊によって、鉱毒を含んだ渡良瀬川の水が沿岸の農地に流出することによって生ずる。このため最も洪水が発生しやすい渡良瀬川、利根川の合流点に大規模なダムを建設し川の増水時に流水の調節をすれば水害と鉱毒の被害が防げると考えた。利島、川辺両村の遊水地化である。
明治35年1月初旬利島、鉱毒被害地の租税減免措置の陳情のために浦和の埼玉県庁を訪れた利島、川辺両村の代表は、県庁廊下の役人の一言に一瞬耳を疑った。
「ああ、利島と川辺の人達ですか、二つの村を潰して大溜池をつくるという話ですね」
これを聞いた村の有力者は誰一人としてこの話を信じなかったが、田中正造だけは敏感な反応を示した。「断固反対しなければなりません」。
正造の見通しに狂いはなく、利島、川辺両村の買収廃村計画は、農商務省、内務省と埼玉県との間で着々と進められていたのだ。
女性請願団上京
男たちの度重なる押し出しを警官隊に阻止され続けた両村は、苦肉の策として女性の請願団を組織した。村の女性たちは女性請願団を上京させる計画が伝わると、年齢に関係なく村の鉱毒委員などのところに殺到、進んで志願したのだ。
明治35年2月20日の午後、国会議事堂貴族院前の道路に異様な光景が出現した。髪は汚れ、頭にかぶった手拭いの汚れている人もいる。肩の破れた半てん、股引の膝の抜けた乞食のような老婆もいる。18歳から66歳の年寄りまでを含んだ約20人のうす汚い格好の女性の一団が座り込んでいる。
「鉱毒被害地から来た女性でやんす。貴族院の議長様に会わせてくらっせ。お願げえしやす」
泣き声で訴えている。
この様子を知って数十人の警官が駆けてきた。
「ここにいては困る。立ち退いてくれ」
相手が女なので警官も手荒なことはせず、おだやかな口調で命令した。しかし誰一人として動かなかった。
「貴族院議長様に会うまでは死んでも帰れなねえ」
そう言いながら鉄の扉に皆しがみついた。
ついに警官は業を煮やし二人で女性一人をつかまえて引きずり出そうとした。
「お願げえでごぜえます。お願げえでごぜえます」
泣き叫びながら、扉から離された女は巡査の洋服にしがみついた。草履の鼻緒が切れ、裸足になってしまった娘もいる。
「お助けくだせえ。お助けを」
泣き叫ぶ女性被害民に警官もすっかり手を焼いた。新聞記者、国会職員、通行人などが集まり、黒山の人だかりとなってしまい、警官もゴボウ抜きを諦めた。
貴族院前のこの異様な光景は夜になっても続いた。
結局、貴族院の事務官が近衛議長と連絡をとった結果、二日後の22日午前10時から代表と会うということになり、一行は夜遅くなって宿舎に引き上げた。
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昨夜、宿舎で付き添いの男性から貴族院議長に哀訴する言葉を教わり、暗記していた。ところが、この部屋に入ったとたん、なにか別世界に来たような錯覚におそわれ皆忘れてしまった。
「鉱毒を無くしてくだせえ」
「お願えします」
「お助けくだせえ」
この三つの言葉を口から出すのが精いっぱいだった。
近衛議長は五人の女性を一人一人眺めまわしたあと、静かに諭すように言った。
「そのうちに、良いたよりを聞くこともあろうから、そう心配をせずに、故郷に帰って仕事にはげみなさい」
五人は神の声を聞いているような思いだった。とても質問などする気になれなかった。接見はものの十分もかからなかった。
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最後の押し出し
そのころ、鉱毒被災地で有毒な砒素が発見され、このことが発火点となって、利島、川辺両村などの住民が東京への大挙請願、最後の押出しが計画された。
3月2日朝、利島村柳生の養性寺に両村住民を中心に被害民が集合した。その数は二千人近くにまでふくれあがった。
約二千人の被害民は三国橋を渡った。茨城県古河町の日光街道に入る頃には途中から参加した農民も加わって総数は約三千人にふくれあがった。
中田の渡しから利根川を渡り、埼玉県栗橋町まで来ると、五百人以上の警官が待ち受けていた。約十人の検挙者をだし、二千人以上の被害民が栗橋で阻止されてしまった。二日から三日にかけて警官の警戒線を突破して東京にたどり着いた約三百人の被害民は、警官隊に阻止されながらも、田中正造の盟友鈴木万次郎代議士の取りなしで代表7人が平田東助農商務相と会見できた。
まず、利島村相愛会会長、片山嘉兵衛が泣きながら訴えた。
「われわれ鉱毒被災地で最近、足尾の鉱山から流れてくる新しい毒が発見されました。被害地に住む三十万の人間を救うため、足尾鉱山の操業を停止してください。また、渡良瀬川最下流、利根川との合流点にある埼玉県北埼玉郡利島村、川辺村を遊水池にする計画があるとの噂を聞きます。
これは両村民を流浪の民にし、命を奪うのと同じです。絶対におやめください」
最後に片山が涙を拭って
「お助けください」
とお辞儀をすると残りの6人もいっせいに、
「お助けください」
と泣きながらお辞儀をした。
大臣の隣りに座っていた秘書官は、この光景を見て居たたまれなくなったのか、席をを立って部屋から出ていってしまった。
次いで川辺村の稲村広吉、茨城県新郷村(後に一部が川辺村に合併)の山中善松が訴えた。いずれも最後に
「お願いします」
「お助けください」
と言うと、他の総代がこれを繰り返した。
全員から陳情を聞き終わると平田はやさしい口調で答えた。
「被害民の窮状ははよくわかった。政府としては近く鉱毒調査委員会を発足させ対策を十分見当してみるつもりだ。君達の陳情はできるだけ考慮に入れたいと思う」
こういって言って立ち立ち上がろうとした。すると総代の一人が大臣の背広の袖につかまって叫んだ。
「お願いでございます。鉱業停止を」
他の総代も同じことを言った。平田は当惑した表情でしばらく中腰のままだった。
七人の総代は警官の人垣の中を通って官舎の外に出た。 |
3月7日には被害民約百五十人が再び内務省に集合し「大臣に会うまでは帰らない」と座り込んだのだが、警官隊に阻止されてついに内務大臣に会うことはできなかった。
利島、川辺両村の廃村計画の元凶は農商務省よりも内務省だとの噂が流布されていたのだった。
利島村相愛会と川辺村青年有志が推進力となった最後の押出しは、行きも帰りも神社やお寺に野宿するという強行軍であった。
国賊も辞せず
明治35年9月8日、関東地方を台風が来襲、1ヶ月前に水穴ができていた川辺村栄西の火打沼先の利根川堤防が360mに渡って決壊し全村が濁流の湖となってしまった。それでも県当局は急水留工事を行わなかった。利島、川辺両村を遊水池化する方針を固めていたからである。
利島、川辺両村はこの年(明治35年)の10月16日、決壊現場で合同村民大会を開いた。両村を買収廃村し遊水池にしてしまう意図で、破壊堤防を放置し修復工事に着手しない政府や県に抗議するするためである。
そして、満場一致で決死の村民決議を採択した。国賊も辞さずの決死の覚悟を示した決議である。
一、国、県にて堤防を築かずば、我ら村民の手に依ってこれを築かん。
二、従って、その際は国家に対して断然、納税、兵役の二大義務を負わず。
村民決議の翌17日 、利島、川辺の両村民有志はこの決議文を持って関係筋への請願に出発した。埼玉県庁では県議会の有力議員綾部惣兵衛の仲介で木下周一知事に接見した。
決議文を読んだ知事の表情がけわしくなった。「兵役、納税拒否」二大国家義務の拒否という文字がそこにあったからだ。知事の表情を素早く読みとった綾部議員は口を開いた。
「知事閣下。決議文は威しではありません。国や県があえて両村の廃村計画を強行すれば、村民総ぐるみで国賊になるも辞さずというもの、万一、そのような事態なれば、県の統治者である知事閣下の責任も免れません」
綾部議員の、それは威しともとれる発言であった。
上京組二組の一隊はは、内務省と農商務省に向かったが大臣に会うことはできなかったが、毎日新聞社長、島田三郎衆議院議員に会うことができた。島田の「田中正造先生の同士として及ばずながら最善の努力をしたい」とのいつもながらの温情に涙して帰郷した。
上京したもう一隊は、早稲田の大隈重信邸に向かった。大隈は田中正造の属した改進党の領袖の中で鉱毒問題に最も理解を示している人物であった。村民の決議文を読んで大隈は言った。
「郷里を愛せない人間は祖国を愛することはできない。国は諸君の村を愛する情熱を踏みにじるようなことをしてはならない。この大隈、閣内にいるわけではないが、一政治家としてやれるだけのことはやる」
この後一行は、向島の榎本武揚邸を訪問した。榎本は農商務大臣だった5年前、お忍びで鉱毒被災地を視察。現地の悲惨な状況を見て、独断で政府の施策を被災民よりに大きく修正したのだが、その直後に農商務大臣を辞任し以後一切の官職に就くことはなかった。榎本は顔見知りの両村民の代表を懐かしそうに迎え入れ、合同村民大会の報告を聞いたあと静かに語った。
「君たちをこのような目にあわせたについては私にも責任がある。一介の素浪人だが、やれるだけのことはやる」
命がけの村民大会決議を見て感動しない人はいなかった。
廃村計画の撤回
明治35年12月27日、木下埼玉県は臨時県議会において、利島、川辺両村の遊水地化計画断念を表明。利島、川辺両村の人々の決死の闘争は勝利したのだ。
谷中村廃村
明治37年12月、栃木県議会は、谷中村買収案を可決する。
利島、川辺両村の人々は、翌年1月に「谷中村買収廃止請願書」を貴衆両院議長に提出し、谷中村民の自主築堤工事にも義捐人夫隊を派遣するなど、谷中廃村反対派の支援を行ったのだが、谷中村廃村・遊水地化を阻止することはできなかった。
1913(大正2)年9月4日 田中正造死去
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田中正造翁の墓
(北川辺西小学校)
田中正造の死に際して、利島、川辺両村は臨時村議会を開き、遺族に分骨を願い出て許された。
北川辺町では、郷土を救った義人田中正造翁を偲んで毎年法要を開催している。
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