田口和美博士の銅像と顕彰碑(道の駅きたかわべ)

 田口和美(たぐちかずよし)は天保10年(1839)、当時は古河藩領の武州埼玉郡小野袋村藤畑に医師田口順庵の長男として生まれた。
 父順庵は代々の漢方の町医で寺子屋も開いていたという。和美は幼少の頃から父から学問の手ほどきを受けていたのであろう。
 嘉永6年(1853)、14歳になった和美は、蘭方を修めるために江戸に向かった。江戸では佐藤一斉と塩谷宕陰に和漢学と和蘭学を学び、幕末の代表的な蘭方医であった林洞海の塾で学んだと伝えられている。(この年は井伊直弼が桜田門外で水戸藩士に暗殺された)
 その後、赤沢寛堂の元で2年間の修行を経て、文久元年(1861)故郷の藤畑に帰って、翌文久2年、23歳になった和美は佐野市(下野国安蘇郡佐野小屋町)で医院を開いた。
 佐野小屋で臨床医としての経験を積んだ30歳の和美は明治2年(1869)、妻子を藤畑の両親の許に預けて上京し官立の医学校兼病院に入学し、イギリス人医師ウイリス等から英語、医学、解剖学、生理学等学んだ。
 入学後間もなく、篤志解剖第1号となった美幾女の解剖の執刀者となった。
 和美は改称された大学東校で明治3年(1870)の10月から12月までの3カ月間に52体の解剖を行うなど研究を重ねていった。

※美幾女の篤志解剖
 かつて腑分けと呼ばれていた時代から、刑場で刑死者にしかできなかった解剖を篤志とはいえ病死者の遺体を刑場以外で行うことは、わが国の解剖学史上、というよりも日本近代医学史上特筆すべきことがらであった。


 吉村昭の小説「梅の刺青」には美幾女の解剖を題材にしたくだりで、解剖執刀者を田口和美として描いている。右はその一節。
 美幾女の腕には梅の折枝と愛しい人の名が彫られた短冊の刺青があったという。
 美幾女は、文京区の念速寺に丁重に葬られた。


 明治4年(1871)年に来日し大学東校で医学教育を確立したドイツ人医師ミュルレルの回顧録には、認めていた二人の人物として、後に東京帝国大学医科大学長になった三宅秀とともに和美が記してある。

 我々の目的に役立ちうるのは彼らの内ただ何人かわずかな人々だけであった。例えば解剖学の助手田口氏は、自ら解剖を行い得る全く申し分のない主任助手・・・

 和美は教員最下位から順次地位を上げ、明治8年(1875)には教授となった。そして、明治10年(1877)、東京大学医学部が発足すると、初代の解剖学教授となった。
 和美は、明治10年から明治15年にかけて『解剖覧要』を刊行した。日本語で書かれた初めての体系的な解剖書は、13巻14冊(13巻は上下2冊)は実地解剖に基づいてまとめられた著作は、不断の研究の成果でありその独創性は高く評価されている。明治20年(1887)には『挿図顕微術覧要』を刊行した。
 明治20年(1887)、47歳となった和美はドイツに留学した。当時としては晩年の留学でしかも自費留学であった。
 ベルリン大学のワルダイエル教授の研究室で研究に努めた。ワルダイエル教授の助手も努めて和美であったが、教授の後に続いて小柄な東洋人が教室に足を踏み入れたとき、学生たちの見合わせる眼には嘲笑う気配が読みとられた。しかし、実際に授業が始まって教授をサポートする和美の姿に接し、熟練した解剖技術の素晴らしさや、学識の深さに学生たちは驚き、日ならずして指導を請うようになったという。
 明治21年(1888)5月に医学会から最初の5名が医学博士となったが、和美は6月に博士号を授与された。、
 その後、明治26年(1893)には日本解剖学会初代会頭になり,明治35年(1902)には日本連合医学会(現在の日本医学会)が設立され初代会頭に選出になった。

 和美は、明治37年(1904)2月3日不帰の人となった。葬儀は2月8日に行われたが、墓地に向かう葬列には陸軍2個中隊の儀仗兵が参列したという。また、明治天皇の勅使として片岡侍従が派遣され、「白絹2匹、祭祀料三百円」が下賜された。
 和美が世を去ってから4年後、5周忌にあたる明治41年(1908)東京美術学校の海野美盛教授制作による田口和美の銅像が完成し除幕式が行われた。



 長らく東京大学解剖学教室にあった和美の銅像は、平成6年(1994)無償永久貸与となり、北川辺町に移管された。
 銅像は町の生涯学習センター「みのり」の構内に移設されている、道の駅きたかわべの銅像はレプリカである。



『わが国解剖学の父田口和美博士』(北川辺町田口和美博士研究会・北川辺町教育委員会)による