2019年7月
7月29日 コバノカモメヅル
この頃人気の小葉の鴎蔓。
貴重種ではないが、かくのごとく花が可愛いからだろう。
最近のことだが、散歩中に立て続けにコバノカモメヅルの所在を尋ねられた。
珍しい昆虫がいるらしい。
ガガイモ科カモメヅル属の多年草。
7月27日 ホソバオグルマ
ヨシ原の道を行くと、密集したヨシの中から細葉尾車が顔を出している。
子供広場には群落もあるのだが、散歩の途中で見かけるこの様子には風情がある。
キク科の多年草。貴重種;絶滅危惧II 類(VU)
7月24日 ツマグロヒョウモン(幼虫)
スミレの葉を食む毒々しい毛虫は褄黒豹紋の幼虫。
もともとは近畿地方以西でしか見られなかったようだが、1990年代以降は関東地方にも北上したと云う。
厄介なのはスミレの葉を食い荒らすこと。このところ谷中湖西橋近くの縁石の隙間に自生するスミレが標的になっている。
さなぎには蛍光っぽい突起がある。
幼虫もさなぎも・・・。今風に言えば、やばい!
ヒメヨモギの虫こぶ(虫えい)
ヒメヨモギの茎にラグビー様の虫こぶ。
割ってみると茶色のさなぎが一つ。ヨモギマルフシミバエの虫こぶでのようだ。
もうすぐ羽化するのだろう。
7月16日 ワルナスビ
植えてはならない植物と言われるのは悪茄子。
牧野富太郎博士が圃場に植えたところ、
地下茎が四方に伸びて始末に負えないほど繁殖し、
根絶しようとしてもはびこる一方だったので、この名が付いたと伝えられている。
アメリカ原産の帰化植物。別名に鬼茄子。
ナス科の多年草。有毒。
英名には"Apple of sodom"や"Devils tomato"もあると云う。
ニジュウハチホシテントウ
ワルナスビの葉に二十八星瓢虫。背面に大小28の黒斑がある。テントウムシ科。
ナナホシテントウなど多くのテントウムシはアブラムシを食べる益虫なのだが、
このテントウムシはナス科の葉を食べる害虫。
そのためか、テントウムシダマシなどと不名誉な名で呼ばれることもあるようだ。
7月13日 アゼオトギリ
まごころ橋近くの畦弟切自生地。アゼオトギリはオトギリソウ科の多年草。
貴重種:絶滅危惧ⅠB類(EN)
アクリメーション財団がロープを張って保全しているが、年々減少してしいるように思える。
花は見頃。右にヌマトラノオが写っている。
記録を見ると、この群落を発見したのは2009年7月14日。ちょうど10年前のこと。
ここのヌマトラノオも咲いているころだろうと、背丈ほどに伸びた草原に入って偶然発見した。
雌しべ赤い柱頭が三つ。雄しべは多数。
7月10日 イヌヌマトラノオ
谷中湖周回路の縁石の隙間から顔を出しているのは犬沼虎尾。
ヌマトラノオとオカトラノオの交雑種。サクラソウ科の多年草。
花冠は5裂。イヌヌマトラノオらしい虎尾だ。今日は瑞々しい花に出合えた。
7月8日 オカトラノオ
丘虎尾は湿地の植物ではないようだ。
もちろん希少植物ではないが、遊水池では珍しい。
サクラソウ科の多年草。
もう終わりかけてはいるが花は美しい。
イヌヌマトラノオ
くだらない植物だから犬の名が・・・。
犬沼虎尾はヌマトラノオとオカトラノオの交雑種。サクラソウ科の多年草。
調べると花冠は5裂とあるが、この花は6裂。
雑種だからいろいろあるのだろう。
7月5日 シロネ
ヨシ原の隅に密集して白根の群落。シソ科の多年草。
白い小さな花は葉の付け根に環状に付く。
オオルリハムシ
シロネの葉の上で仲良くしているのは大瑠璃葉虫
オオルリハムシはシロネの葉を食べる。ウチュウ目ハムシ科。
「渡良瀬遊水地の昆虫図鑑」(2009年4月)には情報不足(DD)とあるが、
Web上では準絶滅危惧(環境省RD)との記載もある。
7月2日 カラスビシャク
烏柄杓はサトイモ科の多年草。小さな仏焔苞を持っている。古代に中国からの帰化植物のようだ。
毒草にして薬草。漢方ではカラスビシャクの球茎を乾燥したものを半夏といい、気管支炎や消化不良、婦人ヒステリー症の不眠などに効果があると云う。
手持ちの俳句歳時記には、半夏生とはカラスビシャクが毒草を生じるというのでこの名がうまれたとあり、時候に分類されている。
ハンゲショウ
半夏生はドクダミ科の多年草。この時季に遊水池ではヨシ原の下草として普通に見られる。
名前の由来は半夏生のころに花を咲かせるからだという。別名に半化粧。古くは片白草とも呼ばれたと云う。
手持ちの俳句歳時記では植物のハンゲショウは半夏生草とある。
複雑でややっこしい!
なお、Web上では、時候と植物が混在して使われている。
7月1日 延命院の連絡箱
「谷中村の遺跡を守る会」が設置している連絡箱の連絡ノートを開けると・・・。
黒沢酉蔵
黒澤先生とは黒澤酉蔵(1885-1982)。
黒沢酉蔵は茨城県久慈郡世矢村小目(現在の常陸太田市)の貧しい農家の4人兄弟の長男として生まれる。
当時中学生であった1901年(明治34年)12月、田中正造の足尾鉱毒・天皇直訴事件知り感銘し、その後田中正造の助手として、
北川辺(利島村、川辺村)、谷中村の遊水池化反対闘争に加わった。
若輩であったが、地元民からは小田中と呼ばれるほど信頼を受けたと云う。
その後、黒沢酉蔵は北海道に渡り酪農事業に従事し、雪印乳業の創始者にして、酪農学園大学の設立者。
日本酪農の父、北海道開発の父とも呼ばれる。
山岸一平氏が「死なば死ね殺さば殺せー田中正造のもう一つの闘い」(講談社 昭和51年)の刊行に際して、
「献辞ー田中正造の思い出」を寄せている。
明治三十八年の四月、私の母の死に直面し、一家の生活を支えなければならなくなり北海道に渡った。田中先生はいつも「国土滅びて民族滅ぶ」と唱えて、鉱毒反対、遊水池反対運動を指導した。この教えを受けて私は、精神的にも物質的にも健康な国土と国民を育てること、すなわち「健土健民」論を掲げて北海道の酪農の発展のために生涯を捧げることにした。 |