渡良瀬遊水地トroトロ散歩




2023年2月

直線上に配置

2月27日  ハイイロチュウヒ(♀)

ふと前方を見ると・・・、何やら一直線にやってきた。
自転車を倒してカメラを準備すると真横を通り過ぎて行っちゃった!
気づくのが2秒早かったら前方からいい写真が撮れたのに、今日も不運であったなあー。

灰色沢鵟はタカ科チュウヒ属の冬鳥。
灰色の♂は何度か見かけたが、残念ながら撮れていない。


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2月26日  ジョウビタキ

強風に煽られて寝ぐせのような格好になった尉鶲の♀。
♂は派手な格好をしている。

スズメ目ヒタキ科の冬鳥。


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2月25日  シメ

史跡ゾーンのこの木ではよく見かけるだがなかなかいい写真を撮らせてくれない。
大きな嘴が特徴。この子は♀のようだ。
♂は目の周りが黒い。

スズメ目アトリ科。全国的には冬鳥又は留鳥で、遊水地では冬鳥。

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2月23日  正造翁賛碑

三国橋の上流。古河の土手に渡良瀬川を臨んで大きな碑が置かれている。
(後方は古河リンクスのクラブハウス)


「田中正造翁遺徳之賛碑」

田中正造翁の天皇直訴や谷中村の人々の様子が刻まれている。
レリーフの下の銅板には天皇直訴文。

谷中村と古河町

谷中村は明治になる前古河藩領で「谷中八百石」の石高があったという。
農産物やよし簀、網代、菅笠などは古河の問屋仕切りであったし、
養蚕や機織りも古河の人々の指導を受けていた。

今でも古河の名産である「鮒の甘露煮」は江戸時代に始まったと言われているが、
魚は水郷の谷中村から古河の業者に持ち込まれた。

谷中村民からみれば古河の町は都会であり、日用品などの買い物はもちろん古河であった。
嫁入り前の娘は和裁習得などでお師匠さんのもとでお針子として習得もした。
「嫁ムコのやり取りは、ぜひ古河」ともいわれたほどの憧れでもあった。
谷中村民と古河町民のつながりはかくも深かった。


鉱毒事件に当たっては、正造翁の東京との行き来は古河の街を通って、古河駅を利用してのものだった。
切符を買うにもできないほど困窮していた正造翁を古河の人々は物心両面で支えた。
古河駅西口の大きなビルができる前まであった田中食堂は正造翁の行きつけと言われている。

谷中村廃村を反対し谷中村民を守るために尽力していた正造翁を古河の人々は尊敬し応援した。

1907年(明治40年)谷中村残留民の家を強制破壊するために栃木県庁が人夫募集した折、古河町の鷹見町長は言い放った。

「谷中村ぶち壊しの人夫に雇われるなとはいわないが、
これが募集に応ずる人には、立ち退き料を与える故に、古河町より他へ移転してもらいたい。
而して、古河町へは再び足踏みすることはお断り申す」

古河町民で募集に応じた人はいなかったと云う。

廃藩置県によって栃木県と茨城県に分かれてしまったが、谷中と古河の人々のつながりは深かったのだ。

谷中村廃村後の移転先は古河町が最も多かった。
(1909年の谷中村村民による調査よると、古河市89戸、野木町63戸、藤岡町62戸、那須烏山市18戸、、北川辺町15戸・・・・)


かくも立派な「田中正造翁遺徳之賛碑」を建てた古河町民の心意気を感じる。


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2月19日   虹

(8:40)
中央エントランスから下宮橋を通って谷中湖の北、三毳山を臨むと虹!

薄く不完全だが幅は広い。谷中湖上空にできた虹だろうか。


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2月18日   ツグミ

草原にぴょんぴょんと現れたのは
人影を警戒しているようには見えないが、近づくと逃げる。
ツグミはスズメ目ヒタキ科の冬鳥。

昔のこと。
007のスパイ映画が流行ったころ、「0011・ナポレオン」というが後発の映画が作られた。
主役はロバート・ヴォーンとイリヤ・クリヤキンのまだ駆け出しの役者が演じた。
放映された初期には、悪の組織は吹き替えや字幕で『ツグミ』。
妙な呼称だといぶかっていたが、後にスラッシュ(Thrush)と言い換えられて、ようやく外国映画らしくなった。

半世紀以上前のことだがツグミを見るたびに思い出す。
つまらないことを憶えているといつもあきれている散歩人です。


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2月16日   鴨の群れ

谷中湖は減水が進んで水場が少なくなってきて、凍っていない水際にカモたちが集まっている。
ほとんどが真鴨だが、緋鳥鴨尾長鴨もいる。

一昨日昨日と強風が吹き荒れた日にはほとんど見かけなかったこの子たちは、一体何処にいたのだろうか。


ミコアイサ

巫女秋沙もいる。
全体が白っぽいのが♂で、頭頂に茶色い帽子を被ったように見えるのが♀。
♂の模様からパンダガモの愛称がある。
カモカ科ミコアイサ属の冬鳥。



コガモ

池内水路の護岸で日向ぼっこをしているのは小鴨
♂の頭が継ぎはぎした覆面のように見えることからデストロイヤーの異称がある。
プロレスラーのザ・デストロイヤーの覆面は白色なのだが・・・。
やはり、日本人にとっては覆面レスラーの象徴はザ・デストロイヤーなのだろう。
手前が♀。カモ科の冬鳥。


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2月7日   谷中村残留民最後の地

1月30日の火災で焼け野原になったヨシ原浄化施設の傾いた標柱には次のように刻まれている。

染宮与三郎屋敷跡 強制破壊後十年余此の地に留まる

1904年の谷中村の人口は2500人、戸数387戸。1906年(明治39年)に栃木県から強制立ち退きが命じられた。
次の年には廃村後に村に残っていた16戸の家屋は強制破壊されたが、
1904年(明治34年)に移住した田中正造翁と共に、その後も仮小屋を造って留まり続けた。


「染宮与三郎」とは廃村-強制破壊後にこの地に最後まで留まった16戸18人の一人。

仮小屋は破壊された瓦礫を組み立てたバラック、或いはよしずで囲った惨憺たるもので、
雨の日は蓑をかぶって凌いだと云う。
大雨で渡良瀬川が増水すると壊れたままの堤防を越えて濁流が流れ込むという悲惨な状況だった。

1907年の大洪水について、『谷中村事件・ある野人の記録・田中正造伝』(1982年、新泉社)には次のようにある。

染宮与三郎方は水にさらわれて仮小屋も人影もなく屋敷跡の竹や木の梢に、無数の野鼠がよじ登り波に煽られている。
正造は舳をまわして、水野彦一方、茂呂松右衛門方、島田兄弟の家、渡辺長輔方、宮内勇次方を経めぐり避難を進めるのだが、 
正造の云うことなら親の言うように聞いていた人々が頑として収容に応じない。


田中正造が1913年(大正2年)に没して・・・、残留民も力尽きた。
すべての残留民が退去して、名実共に廃村になったのは、正造がなくなった4年後の1917年(大正6年)である。

この標柱は、ウォッチングタワーからおよそ200m東のヨシ原浄化施設の道端にある。

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2月5日   延命院本堂跡

谷中村史跡ゾーンの小さな丘は延命院廃寺本堂跡。
ここに『谷中村史跡を守る会』の「谷中村・連絡箱」が設置されている。
久しぶりに中の連絡帳を開くと、1月20日に佐呂間町の町長さんと教育長さんの筆跡が残されている。

佐呂間町の「栃木開基開校70周年・栃木のあゆみ」によると・・・。

栃木部落は、明治44年(1911年)、栃木下都賀郡南部の足尾鉱毒事件被災者66戸、第一次集団移住者によって開拓が始められた。
これは足尾鉱毒事件の被災者で240余名、その後、大正2年(1913年)には第二次入植者が32戸。
酷寒の馴れぬ辺地での開拓の労苦で離職者も多数出たが、
残った入植者の栃木部落には、大正2年に「栃木小学校(昭和61年閉校)」や「栃木神社」が設置され、
栃木県日光の日光輪王寺の末寺で、当時廃寺同然であった「日光多門寺」も遷座された。

現在の佐呂間町字栃木は「もう一つの栃木」と呼ばれている。

現在、「もう一つの栃木」には栃木神社、日光多門寺と栃木公民館があり、栃木小学校の門柱も残っているようだ。


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2月2日   化石

谷中湖が減水して岸辺に敷かれた砕石が露出している。
これは遊水地の北に位置する佐野市の葛生地方から持ち込まれた石灰岩と思われる。
ここを丹念に探していくと化石が見つかる。

フズリナの化石

これは古生代ベルム紀(おおよそ2億5千年~3億年前)に絶滅した原生動物の化石。
その形から紡錘虫とも呼ばれる。
大抵は石灰岩と共に割れて平面的な形しか見えないが・・・。


一つだけ紡錘形の形がレリーフのように浮き出ているものがあった。
周りを丁寧にほじくれば紡錘系の個体が取り出せるかもしれない。


こんなものもあった。
この文様は化石と思われる。フズリナよりもかなり大きい。

何だろう?


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2月1日   ミコアイサ

谷中湖北橋に登っていくと小さな鴨が一斉に飛び立って・・・。

50mほど先に騒々しく着地した。
100羽ほどの大きな群れは巫女秋沙
この冬の谷中湖にはミコアイサ多い。 カモカ科ミコアイサ属の冬鳥。
谷中湖が減水するとミコアイサの群れをよく見かける。

谷中湖が浅くなって獲物を狙いやすくなったからなのか、それとも北帰の準備をしているのだろうか。

2021年1月31日にも北ブロックの中央付近に大きな群れが見られた。

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